阿国の歌舞は「かぶきおどり」や「阿国かぶき」などと呼ばれた。尋常でないもの、つまりは流行の先端を行くような異様な姿を表現する動詞を名詞のように用いて、当初は仮名で「かぶき」と書き、漢字で表記する場合は「傾奇(かぶき)」と書いた。それを朱子学者の林羅山(1583〜1657)が「歌舞妓」(芸妓の「妓」だった)と当て字したといい、江戸期を通じてこれが用いられた。今日のような、文字通りの歌(音楽)と舞(舞踊)と伎(伎芸)を意味する「歌舞伎」と表記されるようになったのは明治になってからという(以下の小文では便宜上「かぶき」或は「歌舞伎」と表記する)。 この「異風異装」の女はたちまち評判となったが、このころの阿国は30歳を過ぎていたと思われ、今日ではやっと花の匂いに落ち着きが見えるようになるころかもしれないが当時としては女の盛りを過ぎていたから、同じころ北野神社の境内で能を演じていた遊女浮舟にパトロンを奪われ、下に述べる「遊女歌舞伎」の人気に押されて京を離れ、慶長12年(1607年)には江戸に現れて城中で勧進歌舞伎を演じている。慶長17年(1612年)に再び京に登場して、慶長8年に没した希代の色男だった名古屋山三が幽霊になって登場する「新しきかぶき」を演じるが人気の挽回はならず、既に40歳をも越えていたと推定される阿国のその後の足取りを伝える資料は残っていない。
歌舞伎の解説書などでは「阿国かぶき」は「遊女歌舞伎」となり、これが風紀上の理由で禁止されると「若衆歌舞伎」へと衣替えし、これまた風紀上の理由で禁止されて「野郎歌舞伎」になったと、それが歌舞伎の発展の過程であるかのように記されているだろう。官能的な歌舞を見せただけではなくて売色も行われたことから、寛永6年(1629年)に三代将軍家光(1604〜1651)によって女芸が禁止され、続いて行われた「若衆歌舞伎」を男色家の家光は好み、城中で演じさせもしたが、女装した美少年が倒錯的な色香を振り撒いてここでも売色が行われたため、慶安4年(1651年)に家光が没すると翌承応元年(1652年)にこれも禁止された、と。しかし実態はそうではなかっただろう。古来より東大寺、法隆寺、園城寺、興福寺など近畿を中心とした寺院や貴族の間で法会や節会の後の遊宴で猿楽、白拍子、舞楽、風流(ふりゅう)、今様、朗詠などの古代から中世にかけて行われていた各種雑多な芸能が「延年」という名で括られて演じられていて、この「延年には稚児(ちご)が出るのが特色」だったから、少年が芸能を演じることは珍しいことではなかった。しかも延年(鎌倉時代には「乱遊」とも呼ばれた)の児舞(ちごまい)を舞った少年が僧侶と同衾することが行われていたという。女性の芸と同様に少年による芸も中世から引き続いて行われていたのであり、それらは女色・男色の売色を伴っていた。そうであるなら「遊女歌舞伎」と「若衆歌舞伎」は同時期に発生して並行して行われていたと見るべきだろう。どうやら、三代将軍家光が男色家であったために「遊女歌舞伎」は禁止しても「若衆歌舞伎」への規制は家光が没するまで控えられたということであったようだ。ただ、結果を見ればそうだが禁止の理由はそこまでシンプルではない。 寛永6年(1629年)の「女芸の禁」によって伴奏を担当する地方(ぢかた)を含むいっさいの女性が舞台に上がることが禁じられ、これ以降、明治24年(1891年)に新派が「男女合同改良演劇」を行うまでの260年余の間、公認の舞台から女性の姿が消えることになった。とは言っても女芸が絶えたわけではなく、あくまで公には禁止されたということに過ぎない。遊郭を公許として遊女を囲い込み、女芸を禁じたことで、楼主が座元になった「遊女歌舞伎」は姿を消した。しかし化粧をして女と見紛うばかりに艶やかとなった若衆たちの間に女が混じる「男女打交り狂言」が行われるようになり、客の求めに応じて若衆が、或は遊女が酒席に侍り、枕を共にした。寛永17年(1640)になっても幕府から「先年申渡候、男女打交り狂言尽し停止候処、又々相始候趣相聞、不埒に付き、以後は厳重に申付候旨触渡さる」(伊原敏郎著『歌舞伎年表』所載)との触書が出されている。たぶん幕府がたびたび触書を出さなければならないほど女芸は行われていただろう。小笠原恭子は「実際は明暦の大火までは、男女打ち交じりの芝居は行われていたものと思われる」(『岩波講座 日本文学史』第7巻)としている。しかし女芸が1629年(寛永6年)の禁止でなくなったのではなくて「明暦の大火」のあった1657年(明暦3年)頃まで行われていたとしても、28年ほどの差でしかなく、大差はないように思われる。だが時間が問題なのではない。お上が発した一つの禁令で消えてしまうほど庶民の芸能(或は文化)がひ弱である筈がない。何よりも、遊女歌舞伎と若衆歌舞伎が同時期に行われていたことに初期の歌舞伎の性格を知ることができ、それが「数万人」もの人を集めるものだったとしたら、幕府が禁止しなければならなかったのは、「風紀上の理由」を越える理由があったからだと考えないわけには行かない。 阿国は、京で散所、奈良で声聞師と呼ばれた社会の底辺に位置づけられる座衆に属していた「あるき巫子」だったとする見方がある。京では出雲大社の巫女としたが遠国では北野大社の巫女と称しており、彼女の出身は加賀ではなかったかと推定させる資料もある。だがここでは彼女の正体は謎のままにして(実際に謎なのだが)、「阿国かぶき」は白拍子、女猿楽、女曲舞(幸若女舞)など中世の女性によって演じられた遊芸の延長上にあると言うに止める。留意すべきは、芸能文化の面で未成熟だった社会でしばしば戦乱に見舞われながら生きなければならなかった女性たちによって演じられた技芸が売色を伴い、少年の芸能もまた売色に染まっていたとしても、それが時代の過酷さを表してはいても決して芸能の堕落を意味するものではないということ。むしろ売色は中世から近世に至る芸能に強かな生命力を付与したのではなかったか(自ら望んだことではなかっただろうが、受身の男色からより女らしい芸を身に帯びた女形の役者もいたという)。そうした性格のために能狂言のようには時の為政者の庇護を受けることができなかったことでかえって、強固に式楽化されることを免れ、歌舞伎は民間芸能として自由な発展を遂げることができた。阿国が評判と見るや遊郭の楼主が遊女に「かぶき」を演じさせたことからも女性が担った民間芸能の性格が知れるだろうし、また演じる者が遊女であろうと若衆や野郎であろうと、それによって「かぶき」の性格がたちまち変わるものでもない。驚くことではなく、戦乱に明け暮れていた武士の間では金銭の授受を伴わない衆道(男色)が行われていたのであり、好悪は別にして、そういう時代であり、社会であり、文化だったと言うしかない。当初の歌舞伎は芸能であると同時に今日言うところの風俗産業でもあったのであり、江戸期を通じて歌舞伎と遊郭は二大娯楽であり続けた。 風俗産業といえば、明暦3年(1657年)に湯女風呂が禁止されている。既に見たように、これに先立って遊女歌舞伎や若衆歌舞伎の禁令が出されていて、幕府は一連の性風俗の取り締まりを行っているかに見える。ではそれらの前の、元和3年(1617年)の元吉原遊廓(現在の地下鉄人形町駅あたり)の公許はどのように位置づければよいのだろうか。ここでは規制の見返りに遊郭の楼主に特権が与えられていて、幕府は禁止するのではなくて管理支配することを目的としている。公許遊郭を設けることで「隠し売女(かくしばいじょ)」を禁止したが実情は野放しと言ってよく(江戸深川、京都祇園、大坂島之内などの私娼街は江戸期を通じて拡大した)、当初吉原で認めていた遊女歌舞伎を禁止し、また若衆歌舞伎をも禁止したのは売色を問題としたからではなくて、「かわら者」たちが作った場(空間)が看過できない政治問題だったからだと見做すべきだろう。歌舞伎は「たかき御身、老翁、墨染の身」、つまりは公家・武士・僧侶などにも受容されていた芸能文化だったが、実はそこのところが問題だった。広範な階層の人たちの間に浸透していた歌舞伎が関わる場(空間)は、遊郭や湯女風呂と同様に社会に弊害をもたらす「悪所」だったのであり、だがそれに止まらず、そこには徳川幕府による支配を揺さぶりかねない問題が巣食っていた。 当時の江戸の町には、1600年(慶長5年)の関が原の合戦に敗れた西軍諸将の領地が没収され或は減封となって発生した大量の牢人が居住していた。慶長20年(1615年)に豊臣氏が滅ぶと徳川に対する牢人の憎悪や怨嗟は更に鬱積したが、それでも幕府は大名支配を強化して牢人を出し続けた。1623年(寛永元年)に家光が三代将軍になると1635年(寛永12年)に、1615年(元和元年)に制定された「武家諸法度」の大幅な改定を行い、参勤交代の制などが加えられて大名統制が強化された。徳川幕府成立初期の大名統制がいかに過酷であったかは、二代将軍秀忠(将軍在位1605〜1623)の時代に64家が、三代将軍家光(将軍在位1623〜1651)の時代に63家が改易になっていることからも知れるだろう。この間に40万人もが寄るべき大名家を失い、彼らの家族や使用人を加えるとその数は膨大となり、江戸には生活の糧を求めて流入した牢人が溢れ、不満が蔓延していた。11歳の家綱が四代将軍になった慶安4年(1651年)に由比正雪の騒擾の企て(慶安事件)が露見するなど牢人が起こした大小の事件が頻発するようになり、幕府は大名統制を緩和すると共に牢人対策に迫られた。 後の時代に書かれた実録本『慶安太平記』は、由比正雪の父は駿河国由井村の紺屋、吉岡治右衛門(幕府文書は駿府宮ヶ崎在岡村弥右衛門)としていて、ここから「賎民視された階層」の出身であったとする見方もある。源義経に兵法を授けた吉岡鬼一判官の子孫であったなど、彼については史実よりも俗説が多くて定かではないが、子どものころから学問や武芸を教わる機会があって、『太平記』も読んだようだ。江戸に出て楠正成の子孫という楠不伝(「太平記読み」だったかもしれない)から楠流軍学を学び、軍学道場張孔堂を開いた。『太平記評判秘伝理尽抄』を講釈し、「江戸城攻め」などの軍略にも及んだようだ。それにしては「慶安事件」はお粗末だったが、それでも幕府は半月後に家族や親類までも処刑した。「教えを乞う者は、旗本、大名の家来、浪人など3000人を数えた」というのが真実ならば幕府にとってその影響力は見過ごせなかったが、彼が説いた軍学も問題だった。『太平記評判秘伝理尽抄』は楠正成を絶対視していた。楠正成は山窩(さんか)との繋がりや世阿弥や渡来系の秦氏との血縁が語られるような素性の怪しい「悪党」だが、南朝を正統とした徳川幕府にとっては「忠臣」だった。だが、徳川氏は清和源氏の新田氏の出身と称したが楠正成は新田義貞を「朝敵」と喝破していたから、天皇の「臣下」でありながら朝廷を圧する強権を確立していた徳川幕府にとって、由比正雪は始末に困る扇動者(アジテーター)だった。そうした、公然と幕府を批判するアウトサイダーを育て、支配秩序を害するアウトローを英雄視する雰囲気(文化)が江戸の町にはあった。だから慶安事件は、事件としては未遂で小さなものでしかなかったが、それが意味するところは決して小さくはなかった。若衆歌舞伎が禁止されたのはそんな慶安事件の翌年だった。数は多いとはいえないが牢人の中には身に付けた素養を生かして歌舞伎役者や講談師などの芸人になる者や、暮らしに窮して身を売る武家の子女もいて、急激に膨張していた新興都市江戸の賑わいの下層では「悪所」が成長し、「悪所」を介して「不逞の輩」が関わりあっていた。 1613年(慶長18年)以降しばしばキリシタン禁令が出され、寺請(てらうけ)などの導入による宗門改(しゅうもんあらため)によって、キリシタン摘発を口実にした民衆統制が強化された。1640年(寛永17年)には幕府に宗門改役が設置され、やがてそれは人別帳による良民の身分制支配と賤民の差別的管理となり、そのようにして、260年に及ぶ徳川幕府の封建的支配体制の基は築かれた。つまりは特殊な技能を持つ者や直接には生産労働に従事しない芸能者を最下層の身分に閉じ込めることで良民との関係を制限しようとした(差別の一端を示せば、「かわら者」は市中を歩くときには笠を被ることが義務付けられたし、贔屓客と遊廓に登楼しても、身を売ったとはいえ良民である遊女と枕を並べることは認められていなかった)。だが「士農工商」の序列が恣意的で実態とはかけ離れていたように、それは支配層の不安や恐れの表現でしかなかっただろう。 江戸時代の初期には戦国の風潮が残り、支配階級である武士の間では衆道(男色)が行われていて、若衆歌舞伎が売色によって隆盛となる素地があった。また「勧進」という形で演じられていた民間芸能は、戦乱による中央権力の衰退によって逆に力を増した寺社の境内や、飢餓や疫病などで死んだ人の骸が捨てられて死霊や怨霊が棲むようになっていた河原という、俗世の権力の介入を拒む非日常的な場(空間)を持っていた。しかも「かわら者」は古代から中世にかけて強く意識されていたケガレに染まった存在でもあった。「ケガレ(穢れ)」は「ケ(褻・日常)」に対立して「ケ」の枯れた状態を意味すると言うが、「ケ」に対立するものに「ハレ(晴れ・非日常)」があり、たとえば出産が晴れやかな祝い事であると同時に穢れでもあるように、「ケ」に対する「ケガレ」は「ハレ」と表裏一体であり、ケガレを引き受けさせられた彼らは良民の生活空間である「ケ」から穢れを取り除く「キヨメ」という特殊な技能をも併せ持っていた。しかもその技能は、能の観阿弥(1333〜1384)・世阿弥(1363?〜1443?)、築庭の善阿弥(1386〜1482)、絵画や華道の相阿弥(?〜1525)のような、また文化人であり大富豪であった本阿弥光悦(1558〜1637)のような高みにも登るものだった。日常性の中で暮らしている良民とは違って非日常の異界と交感していた彼らは怪しくて妖しい、容易には服ろわない存在だった。出自が寺社や公家など権門の私有民であったり「一所不在」の遊芸者であった「かわら者」が「悪所」に定住するようになると周辺に不穏な牢人を呼び寄せ、またその存在は技芸や売色を通じて良民の間に、幕府権力の根幹である旗本・御家人の暮らしにまでも浸透していた。従って彼らをどう統制するかは幕府にとってなおざりにはできない政治問題となっていたのであり、「風紀上の理由」は口実に過ぎなかった。
江戸が明暦の大火からの復興を急いでいたころ、上方の歌舞伎の規制は江戸ほどではなかった。既に公家や朝廷に対する統制が完了していて、幕府は世情への警戒を強める必要がなかったからではないかと見られている。依然若衆歌舞伎が演じられていたばかりか「男女打交り狂言」も行われていただろう。ところが、理由は定かではないが(江戸の規制に倣ったのだろう)、寛文元年(1661年)に一切の歌舞伎が禁止され、おそらく同9年までは演じることができなかった。野郎歌舞伎となって再開されると「傾城買狂言」とか「島原狂言」と呼ばれている、島原遊郭(西新屋敷 1641年に六条三筋町より移転)に傾城(遊女)を買いに行く、郭案内のような話が演じられた。名前を若衆から野郎に変えただけの、相変わらず若男の容色を売り物にした衆道(男色)狂言だった。だがそれも年号が寛文から延宝へと変わるころになると変化が見られるようになり、容色だけの若男よりも女方が人気を得るように、つまりは女よりも女らしく演じる芸が評価されるようになった。そして延宝6年(1678年)2月に坂田藤十郎(1647〜1709)が『夕霧名残正月(ゆうぎりなごりのしょうがつ)』という、この年の正月に病没した大阪新町の遊女夕霧を悼む狂言で藤屋伊左衛門役を演じて「和事(わごと)」の基礎を作り、上方の歌舞伎も元禄期の賑わいを迎えることになった。 広義の元禄期とは元禄(1688〜1704)から宝永・正徳を経て享保(1716〜36)の中ごろまでの、上方を中心にした、封建的武家文化とそれに対抗する小市民的文化が競いながら絢爛と咲き誇った時期をいう。復興した江戸が更に力強く膨張を続けていたころ、長く文化の中心にあって貴族文化が栄えた京の都を持つ上方では、世情が安定して庶民が経済力を持つようになると公家の雅を吸収し、貴族的雅と庶民的俗とが渾然一体となって力強くて華やかな文化を現出させた。文化の供給と需要が質的にも量的にも拡大したこの時期に、井原西鶴(1642〜1693)、近松門左衛門(1653〜1724)、竹本義太夫(1651〜1714)らが歌舞伎に直接・間接の多大な影響を及ぼした。島原の廓文化から発生したという「粋(すい・いき)と不粋(ぶすい)、通(つう)と野暮(やぼ)」の、上方の雅と俗が混成した元禄の賑わいは江戸に伝播して、東西の歌舞伎は科(しぐさ)白(せりふ)劇としての発展期を迎えた。
金平浄瑠璃は初代桜井和泉太夫(桜井丹波少掾 生没年不詳)が演じた古浄瑠璃(竹本義太夫以前の浄瑠璃)で、鉄棒で拍子をとったり人形の首を引き抜いたり、ついには「人形の首をたたき壊しながら語った」こともあったようだ。その野蛮なまでの演出で評判になった金平浄瑠璃が江戸の歌舞伎に移されたのは、そうした荒々しさを好む風潮が江戸に(上方にも)あったからだ。戦国の世が遠退くにつれて社会秩序は固まり、経済的なゆとりを感じる者も増え、すると世情の安定に物足りなさを感じる者もいるだろう。武士の子弟の中には派手な出で立ちで「旗本奴(はたもとやっこ)」と呼ばれ、庶民を見下し、グループを作って乱暴狼籍を行う者がいた。これに対抗して庶民の間からは「町奴(まちやっこ)」と呼ばれる侠客が生まれて彼らと抗争した。明暦3年(1657年)には旗本の水野十郎左衛門が幡随院長兵衛を斬殺し、寛文4年(1664年)に切腹になるという出来事が起こっている。唐犬十右衛門はそんな侠客の一人であり、団十郎の父「面疵の重蔵」も彼らに関わっていただろう。そうした社会状況もあって、庶民の芸能である歌舞伎で鬼や妖怪を相手に大暴れする団十郎に庶民は喝采し、人を超える鬼神の姿を見て信心に近い癒しを感じた。「荒事」とは膨張を続ける新興都市江戸の軋みが生んだ民衆の心象と願望の形象化だっただろう。 市川宗家が「史料への初出」とし、団十郎が延宝8年(1680)3月に『遊女論』の不破伴左衛門を演じたとしているが、この不破伴左衛門は敵役で、島原遊郭の遊女葛城が名古屋山三の妻に相応しい女かどうかを品定めしようとして誘惑する。身持ちの固い女と分かって事情を明かすが、髪を結い直している彼女の姿を鏡の中に見て惚れてしまい、本気になってしまって言い寄るが葛城は頑として応じない。伴左衛門の妻が駆けつけて、悲しみの余り自害してしまい、妻の後を追って伴左衛門も死ぬ。死んだ伴左衛門と妻は霊となって現れて名古屋山三と葛城に恨み事を言う。だが最後には、不破伴左衛門は、実は自分は鍾馗(厄除けの神)だと告白して消える。横恋慕と自害の後に神様になってしまうのだから、今日なら唖然としてしまうところ。これが、「敵役七分」の団十郎がそのイメージを逆手にとって暴れ回った末に庶民に癒しを与えるという「荒事」の原型と言えるだろう。 後に『遊女論』は歌舞伎十八番の『不破』となったが、『不破』は歌舞伎十八番の中では初演が最も古い。不破伴左衛門のモデルは豊臣秀次の寵愛を受けた美少年の不破万作(1577?〜1595)だという。また名古屋山三(山三郎 1571?〜1603)は蒲生氏郷の小姓で後に美濃国兼山城主森忠政に仕えたが、牢人だったころは京の四条河原に住んで出雲の阿国の愛人だったともいうかぶき者で、評判の美男子だった。荒事とは言いながら、そうした評判の色男をモデルにしたことに、容色を売り物にした若衆歌舞伎から野郎の科白劇へと転換していた歌舞伎の過程が窺われる。 成田屋のWebサイトは上の伴左衛門が「史料への初出」としているから、ここではそれ以前の延宝3年(1675年)に団十郎が曾我五郎を演じたかどうかは確認できないとしておく。だが、能や舞や浄瑠璃でポピュラーとなっていた曾我物の続き狂言が貞享5年(1688)3月に江戸三座で演じられ、このとき山村座で五郎に扮したというのは確かなようだ。それまでにも既に幾度も曾我五郎を荒事として演じていただろうが、この後もしばしば演じて曾我物は正月吉例となるほどの人気を得た。初代が急死して元禄17年(1704年)に名跡を継いだ二代目団十郎(1688〜1758)も曾我五郎を演じており、享和5年(1720年)1月に初演した『矢の根』(原名題は『楪根元曾我(ゆずりはこんげんそが)』)は座元がこの狂言の収入で蔵を建てたというほどの大当たりで、これも歌舞伎十八番に加えられた。歌舞伎十八番には他に、『助六』の花川戸助六や『外郎売(ういろううり)』の薬売りが実は曾我五郎とする曾我物がある。 安元2年(1176年)に父を暗殺された曾我兄弟は、建久4年(1193年)5月、源頼朝が行った富士の裾野の巻狩において仇の工藤祐経を討ち果たした。しかし兄の十郎祐成(1172〜1193)は戦いの最中に落命し、弟の五郎時致(1174〜1193)は祐経の遺児に引き渡されて斬首された。兄十郎の愛人であった大磯の遊女虎御前はかつて五郎が修行した箱根権現に詣でて兄弟の百か日の法要を終えると出家し、諸国を巡りながら二人の菩提を弔った。曾我兄弟の苦難の仇討と、19歳で出家して64歳で没したという虎御前の生き様は、天平宝字元年(757年)創建という箱根神社の遊行巫女たちによって「霊験物語」として語られて全国に広まり、数々の「曾我物語」が生まれた。この本懐を遂げたとは言え無念の残る曾我五郎を演じることには、成田屋(市川団十郎家)にとって特別な意味があった。曾我五郎を主人公とする『矢の根』は「呪術的な要素を持つ、信仰色のつよいもの」と言われている。 陰陽道は推古天皇10年(602年)に伝来した。先進的な大陸の文化の摂取に努めた天武天皇(在位673〜686)は陰陽道を駆使して「壬申の乱」に勝利して後はこれを国家管理の思想とした。王権を持つものだけが行うことができる特別なものとして一般に行うことを禁じ、676年に設置された陰陽寮に所属する陰陽師たちだけが関わることができた。陰陽道は天文や暦で未来を予測することができるものだったから、未来を知ることで得られる利益を独占しようとした。だが同時にそれは「君主が善政を行えば、天はこれを瑞祥し、君主が無道を働くと、天は、地震、日蝕、洪水などの災異をおこし、君主を譴責する」とする「天人相関説」を持っていて、それを口実に王権の転覆を是認する危険な思想でもあった。奈良時代末から平安時代にかけて頻繁に災害や疫病に見舞われ、それはとりもなおさず王権の危機を意味したから、朝廷と貴族は祟りをなす怨霊を恐れ、北野神社や上・下御霊神社を造営し、貞観5年(863年)に神泉苑で御霊会を勅修して以降、毎年8月に御霊を慰撫した(今日では庶民の祭りとなり、7月17日の京都祇園祭・山鉾巡行が有名)。だがやがて国家統治の現実的な力が公家から武家に移ると陰陽道は王権を支える役目を終えた。一般民衆の間に広まって俗化し、陰陽五行の自然哲学や御霊信仰の内容は変質した。「天人相関説」などは庶民には意識されず、御霊は「銷災致福」の荒ぶる神として信仰されるようになった。曾我五郎の「五郎」は「御霊(ごりょう)」に通じ、また「五郎」が、16歳で後三年の役(1083〜87)に参加して見事な働きをしながら帰路で無念な最期に遇って御霊となった鎌倉権五郎(平景政 生没年不詳 歌舞伎十八番では『暫』に登場する)を連想させたともいい、曾我物は現世利益を求める民衆の通俗的な御霊信仰と関わりを持った。 本来は天文暦法や占術によって陰陽五行のバランスを図る自然哲学であり科学であったものが、鎮護の教えである仏教の影響を受けて秘教へと変質しながら、朝廷における御霊信仰の高まりと共に陰陽道は存在感を強め、キヨメ(祓い)をも行うようになった。だが時代が中世から近世へと転換する間に陰陽師は影響力を著しく衰えさせた。彼らが掌った御霊信仰は変質しながら庶民の暮らしに溶け込み、おかげで陰陽師の下で働いていた声聞師などが舞いや音楽を使って「門付け」というキヨメを行って糊口を凌ぐ手立てとした。近世の庶民にとって陰陽道は俗化した神秘的な呪法であっただろう。その俗化した「キヨメの呪術」を初代団十郎は舞台化した。そうではなかったか。四代目団十郎は「錦着て畳の上の乞食かな」という句を残しており、定かではないが初代団十郎の父は「菰(こも)の十蔵」と呼ばれたともいい、「筆も立ち、そろばんも達者」であったというから教養人で、陰陽道に関わるような特殊な技芸を伝承し、或は知識を持っていたのではなかったか。時代の雰囲気と父の影響を受けて初代団十郎は荒事と呼ばれる芸を創始し、二代目団十郎の『矢の根』のような「神霊事(しんれいごと)」にもなったと考えたいが、どうだろう。 市川宗家の出自にはいくつか説があり、その一つでしかないが、天正年間(1573〜1591)の末頃に初代団十郎の曾祖父が甲府から下総国埴生郡幡谷村(千葉県成田市幡谷)に移り住み、父重蔵(十蔵)の代に江戸に出て「和泉町」に住んだ。そうだとすれば成田山新勝寺とは縁があった。その縁のあった成田不動尊に、子宝に恵まれなかった初代団十郎が一途に念じたところ「不動の申し子」と言われることになる二代目(幼名九蔵 1688〜1758)を授かり、霊験に深く感謝し畏敬もして、以来新勝寺との関わりを深めた。(参考までに記すと、「和泉町」はたぶん「新和泉町」が正しい。1656年の大火で消失し、明暦の大火があった翌1657年に新吉原へ移転するまでは、ここには元吉原遊郭があった。跡地が新和泉町、住吉町、高砂町、難波町となった。新和泉町の隣の、中村座があった堺町やその隣の、市村座があった葺屋町、つまりは現在の日本橋人形町3丁目界隈は歓楽街で「悪所」だった) 天慶3年(940年)開基という真言宗智山派大本山の成田山新勝寺は元禄16年(1703年)の夏以降11回の出開帳(でかいちょう)を行って江戸に不動信仰を広めた。そのうちの10回が深川永代寺で行われ、初回の出開帳のときに初代団十郎は(おそらく息子九蔵と共に)永代寺境内で『成田山分身不動』を演じた。二代目の初舞台は元禄10年の10歳のとき、父子で演じた『兵根元曾我(つわものこんげんそが)』の「山伏通力坊のちに不動明王の分身」の役だったし、新勝寺の初回の出開帳に先立って元禄16年5月に森田座で、父子で『成田山分身不動』(団十郎が胎蔵界の不動、九蔵が金剛界の不動)を演じてもいる。成田山新勝寺の出開帳で、やがて成田詣でが習俗となって盛行するほど不動信仰が江戸に広まり、それにつれて熱心な信者でもあった荒事の役者団十郎(初代は1704年に没した)の名は新勝寺の本尊不動明王(ヒンドゥー教のシヴァ神)と重なり、団十郎もそれを意識した。初代団十郎が荒事を創始したのが遅くとも貞享2年(1685年)だとすれば九蔵(二代目団十郎)が生まれる前であり、すると初代の荒事は呪術として先ずあり、後に不動と合体したと考えるべきだろう。不動明王は『大日経』に出自を持つが、『大日経』は現世利益的な銷災致福の密教的呪法についても説いており、その真言密教の呪法と、陰陽道の、或は声聞師の「疫病、悪霊、凶」を祓う「キヨメの呪術」とは庶民的俗によって渾然となり、団十郎と不動明王を一体化させた。不動明王は教えに従わない衆生を強制して折伏する「教令輪身」の大日如来だというが、その如来の憤怒の形相が団十郎の隈どりであり、見得であり、荒事なのだ。
歌舞伎十八番にはその名もズバリの『不動』がある(元は『毛抜』や『鳴神』と共に『雷神不動北山桜(なるかみふどうきたやまざくら)』中の一幕)。団十郎は不動明王であり、だから彼が演じる不動に向かって江戸の民衆は賽銭を投げた。そこに庶民と共にあった歌舞伎の強かな生命力を感じることができるだろう。呪術を行う歴代団十郎は名優と呼ばれ、威勢は江戸期を通じて衰えず、その人気は紛れもなく信仰と呼べるものだった。江戸が東京に変わって九代目団十郎(1838〜1903)が、『橋供養梵字文覚』で那智の滝壺に現れる不動明王を演じたときも、「客席から投げられた賽銭雨の如し」だったという。 団十郎の三代目は二代目の高弟の子(市川升五郎)が継ぎ二代目との血の繋がりはなかったが、四代目を継いだ二代目松本幸四郎は二代目団十郎の姪の夫だが、実は二代目の庶子だったと言われている。七代目は五代目の次女の子で、父親は囃方(はやしかた)だったが元は御家人という。十代目団十郎を告別式の日に追贈された五代目市川三升(九代目団十郎の長女の婿)は日本橋の豪商の次男で元は銀行員だった。団十郎の名があまりにも偉大だったからだろう、九代目が没しても跡目を継ぐものがなく、七代目幸四郎の長男が市川宗家の養子となり、養父の五代目市川三升の没後に十一代目を襲名して、59年間の空白を挟んで市川団十郎の名跡が復活した(だがその名が重過ぎたのか短命だった)。名を継ぐことで芸をも伝承してきたのが歌舞伎の家だった。しかし団十郎の名は長らえたが初代の血は受け継がれるたびに薄くなり、たぶんついには明治の末近くの九代目で途絶えた( 系図参照 PDF52.2KB)。その間に初代の野蛮なまでの荒々しい芸は次第に洗練されたものとなり、家の芸である荒事は変化した。その変化は庶民文化の逞しさの、いや、民衆の強かさの衰微であるようにも思える。七代目団十郎(五代目海老蔵)は18の演目を家の芸としてそれに『歌舞伎十八番』と名づけ、団十郎こそが江戸歌舞伎の華なのだと宣言した。だが能の格式を欲して「松羽目物」を創始したのは彼であり、荒事に対する民衆の意識の変化を感じていたのではなかったか。九代目団十郎は「活歴」を標榜して歌舞伎を近代西洋のリアリスティックな演劇に近付けようとした。神仏のごとき暴力を振るうアウトローに喝采したかつての民衆の存在を、明治という時代が認めないと察したのだろう。団十郎の荒事は「民衆の心象と願望の形象化」であり「江戸歌舞伎の華」なのだ。そうであるなら、花の萎れるときは江戸の庶民が強かさを阻喪するときであり、民衆が「荒ぶる」ことを止めるときでもあるだろう。東京は江戸ではないとは、なるほど、何重もの意味で、確かにそうだ。 ![]() 参考文献 「演劇の興隆」鎌倉恵子・小笠原恭子 『岩波講座 日本文学史』第7巻 岩波書店 所収 『日本歴史体系H』<幕藩体制の成立と構造(下)> 井上光貞ほか編 山川出版社 『歌舞伎ハンドブック 改訂版』藤田洋編 三省堂 『歌舞伎十八番』戸坂康二 隅田川文庫 Japan Knowledge http://www.japanknowledge.com/ 「邦楽に描かれた吉原」 大瀧邦楽器『邦楽ニュース』 http://plaza.people.or.jp/otaki/news/yoshiwara1.htm 「御霊会に関する一考察」伊藤信博 名古屋大学『言語文化論集』 http://www.lang.nagoya-u.ac.jp/proj/genbunronshu/24-2/itoh.pdf 「穢れと結界に関する一考察」伊藤信博 名古屋大学『言語文化論集』 http://www.lang.nagoya-u.ac.jp/proj/genbunronshu/24-1/itoh.pdf |